建造物関係一覧

上青木 / 国指定重要文化財

松下家住宅・土蔵

 松下家の祖先は、戦国時代までさかのぼる。江戸時代に入ってからは代々名主組頭の村役を勤めた。現在の松下家の普請は、文政3年(1820)3月六郎左衛門によって建築されたことが、上座敷の書院障子の戸ぶちに残る墨書きによって確認できる。母屋は西に面し桁行14.6m、梁間15.8m、切妻造妻入の構造となっている。内部は、北側に土間を取り桁行3列に12部屋をならべ、特徴として全体に壁が少なく、裏側にも床つきの座敷があり、生活の中心となっている居間が建物の裏側にとられているなど、本棟造の中ではかなり進歩したものとなっている。 周囲の山から切り出したといわれる赤松などの構造材は非常に大きく14.6m、8間通しの大梁は手斧削りの痕がくっきりと残っている。また、馬屋を含む北側は軸の部分が別構造になっている。こうした構造は長野県の南西部に多く見られる。母屋の北側にある土蔵は明和9年(1772)の建設で、母屋より50年ほど古く、豪農の屋敷構と伝えられている。

上蔵 / 国指定重要文化財

福徳寺本堂

 福徳寺の建立年代は、仏像台座の墨書に平治2年(1160)とあり、平安時代末期の創建を伝えるが、昭和28年の調査を兼ねた解体修理によって、鎌倉時代以前まではさかのぼらないことがわかった。堂内に安置されている仏像は、中央に薬師如来坐像と阿弥陀如来坐像が並存し、毘沙門天・聖観世音菩薩の2体が脇に配される。「醫(医)王山福徳寺」の山号は天台宗系寺院のものであり、本尊は薬師如来となろう。堂建立の施主や中心人物は不明である。
 堂は桁行3間、梁間3間、1重、こけら葺であって、組物は隅柱のみ舟肘木を設け、軒1重疎垂木木舞打ちの簡素な建物であり、小規模ながら洗練された姿からは中央の寺院建築文化の風格が漂う。明治45年に特別保護建造物の指定を受け、昭和25年重要文化財の指定を受けている。

大河原 / 国登録有形文化財

小渋橋

大鹿村の小渋橋は天竜川水系の小渋川に架かる三連アーチ橋で、長野県が昭和32年(1957)に建築した。下路式鉄筋コンクリート造りで、長さ106m、幅5.5m。曲げ剛性を有するアーチ材と桁を垂直材で結ぶローゼ桁形式で、県内に多く建設された鉄筋コンクリート造りの橋梁の中でも技術と景観の両面から見ても完成度が高いといわれている。

上蔵 / 国登録有形文化財

上蔵堰堤

昭和28年(1953)に、天竜川水系小渋川に築かれた砂防堰堤。堤長33m堤高23mのアーチ式コンクリート造堰堤で、ほぼ左右対称の立面形状となっている。表面は花崗岩の谷積。上流法勾配1.5分、下流法勾配2分で天端厚は2.0m。本格的なアーチ式堰堤としてはわが国初期のものである。

大鹿歌舞伎関係

国重要無形民俗文化財

大鹿歌舞伎

江戸時代から大鹿村に伝承されてきた地芝居(農村歌舞伎)。村内に残る古文書には、明和4年(1767)に村人によって歌舞伎が上演されたと記されている。地芝居は農村の最大の娯楽として、幕末から近代にかけて全国各地で盛んに行われていたが、大鹿歌舞伎はその地芝居の原形を今日まで残している。大鹿歌舞伎のみに残る外題(演目)や演出があり、平成8年に地芝居の分野では全国で初めて国選択無形民俗文化財となった。舞台は幕末から明治にかけて村内13ヵ所に建立され、現在は4ヵ所に上演可能な舞台が保存され歌舞伎が上演されている。公演活動は活発に行なわれ、オーストリア・ドイツへの海外公演をはじめ、大阪国立文楽劇場公演など各地で上演をしている。村内では春(5月3日)秋(10月第3日曜日)に定期公演として年2回、大磧・市場神社両舞台で昔ながらの地芝居を演じている。

上蔵 / 村指定文化財

野々宮神社舞台

歌舞伎舞台、木造二階建、切妻造り、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台、平を正面とする。明治22年8月建立。昭和61年改修。舞台横の宝蔵からは、文化12年の墨書きのある襖絵の収納箱、天保13年の墨書きのある舞台引き幕も発見されている。この舞台のある上蔵集落は、明治から大正にかけて浄瑠璃語りの太夫を輩出した歌舞伎熱の高い地域である。

下市場 / 村指定文化財

大磧神社舞台

歌舞伎舞台、木造二階建、切妻造り、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台、妻を正面とする。昭和48年改修。大正4年と昭和3年の天皇即位の際、即位大典祝賀の祭典が開かれ、特に昭和3年には8集落で16演目の歌舞伎が3日間にわたって上演され盛会を極めた。昭和58年より定期公演が成され、大磧神社舞台では毎年春5月3日に上演されている。

塩河 / 村指定文化財

市場神社舞台

歌舞伎舞台、木造二階建、切妻造り、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台付、平を正面とする。嘉永4年(1851)建立。昭和47年改修。明治の初め義務教育初期の頃は説教所(教室)としても利用されていた。この舞台には昔の地方回りの有名な役者がきて演じている。市川中車・尾上多賀之丞等の名前も、二階の楽屋の壁に落書きしてあり、「日本の芸談」には中車本人が、大鹿にきて演じたと記している。昭和58年より定期公演が始まり、市場神社舞台では秋10月第3日曜日に上演される。

梨原 / 村指定文化財

葦原神社舞台

歌舞伎舞台、木造二階建、切妻造り、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台、明治20年建立。昭和51年に改修した。葦原神社は、大鹿村の芝居発祥の地ともいえるほど氏子衆の間で歌舞伎が盛んに行われ、大正から戦後にかけて舞台の唐紙大小道具、綺羅までも自ら作り出していた。これは「中峰の綺羅」とよばれ大河原方面へも貸し出すなど、今日の大鹿歌舞伎保存伝承に大きな貢献をしてきた。

宗良親王関係

宗良親王

後醍醐天皇の第八皇子であり、御生母は歌道の大御所藤原定家の子孫にあたる藤原為子である。親王20歳の時、比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村へは興国4年(1343)の冬34歳の時に、香坂高宗に迎えられて大河原城に入られ、爾来30余年ここを拠点として諸国への往来も数度に及んだ。正平7年(1352)親王42歳の時、足利尊氏を鎌倉に討伐の宣令があり、征夷大将軍に任じられ武蔵野合戦・桔梗ヶ原等に出陣した。親王は南北朝第一の歌人と称せられ、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」がある。小手指原の激戦の陣頭歌として詠まれた「君がため世のため何か惜しからむ捨てて甲斐ある命なりせば」は有名である。また、「いづかたも山の端近き柴の戸は月みる空やすくなかるらむ」は、大河原・御所平の風景を詠まれたものである。親王終焉は静岡県井伊谷など各地の説があるが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都醍醐の三宝院に保管されており、最も信頼性のある資料とみられている。

釜沢 / 村指定文化財

宝篋印塔

石質は多孔性安山岩で通称伊豆岩、室町時代初期の建立。伝承によると地元では九輪之塔と称し、宗良親王の墓標塔として祀っていた。塔身には4面に4種の梵字があり、蓋上部四隅には馬耳型突起が斜立する。室町時代初期の姿を示し、宗良親王大河原薨去説を裏付ける貴重な史跡である。

上蔵 / 村指定文化財

香坂高宗墓跡

室町末期。香坂高宗は南北朝時代に大河原城主として征夷大将軍信濃宮宗良親王に忠節をつくした人物で、応永14年(1407)大河原城にて没する。高宗の家系は定かではないが宗良親王に仕え一族を率いて忠節をつくしたことは明らかで、この忠節に対して大正4年大正天皇即位大典の日、高宗に特旨をもって従四位が贈られている。

上蔵 / —

大河原城趾

南北朝時代、宗良親王を生涯に渡って守護した香坂高宗の居城である。この城の大きな特徴は、険しい自然の地形を十分に生かした天然の要害であったことにつきる。南は眼下に小渋川の急流を望む断崖があり、東には、太田村沢の渓谷、北・西側は、空堀をもって防備とした。興国4年(1343)の冬、ここに親王を迎え入れた高宗だったが、なお不安に思い、さらに釜沢の奥地、内ノ倉現在の御所平へ安住の地を定めたのである。

仏像・石碑関係

上蔵 / 長野県指定有形文化財

福徳寺本堂薬師如来・
阿弥陀如来坐像

薬師・阿弥陀両像はその大きさ、おっとりとした面貌などの穏和な作風、一木造りで内刳りを施さない簡古な構造などが共通しており、一具同作と認められる。地方色の濃い素朴な像だが、その作風や構造から平安時代後期12世紀の制作と推定される。現存の福徳寺本堂(国指定)は様式的に鎌倉時代末から室町期のおおむね14世紀頃の建立とされているが、その創建は平治2年まで遡るとみられる。その本尊薬師と阿弥陀は、両脚部が後補に変わるが、平安後期様式を示しており、その造立年代を堂の建立年代に合わせることは困難である。台座墨書にいう当寺創建の平治2年も可能性として十分あり得るものと思われる。福徳寺の平治2年創建時本尊の可能性が考えられることは、当時の歴史上たいへん貴重でその歴史的価値は高いと言えよう。(実践女子大学武笠朗氏所見)平成18年長野県有形文化財に指定される。

文満 / 村指定文化財

松平神社神像

4体、桧の一木造、立像、平安時代末期の彫刻。内1体は冠をかむり上半身は裸形で合掌をしている。もう1体は僧形であるが、手は合掌ではなく組み合わせている。これらの形は、平安時代に始まった、仏菩薩が神の姿になって現れるという本地垂迹説という神仏習合を裏付ける姿をしている。彫刻はたいへん粗雑で朴とつ、ひなびた趣があり、はじめは彩色が施されていたが現在は剥落している。神仏習合思想を現した像としてその歴史的遺産としての価値はたいへん高いものがある。

下市場 / 村指定文化財

大磧神社神像

4体、このうち桧の一木造2体、桜1体、堅木1体、坐像が3体、立像が1体でこの立像は十二天、十二神将といった類の天部形。坐像3体は衣冠して笏をもっている。この神像も松平神社のものと同じく神仏習合の姿をしており、彫刻もあらけずりで稚拙、彩色されていたが現在は剥落し、窪んだところに胡粉が見うけられる。木は相当さらされて虫喰いの跡が所々にある。この神像も古いものは平安時代末期と見られ歴史文化的価値のたいへん高いものである。

上青木 / 村指定文化財

妙清庵仏像

菩薩形立像、桧一木造、平安時代末期。この像は、松下家の伝承によれば、松下家祖先が信仰していた観音菩薩であり、妙清庵はそれを祀った松下家の持仏堂といわれる。本像は、印を結んだ右手を下げ、左手は衣を掴んで胸元にある。彫りは大まかで風貌も素朴なおおらかさが感じられる。

下青木 / 村指定文化財

下青木薬師堂仏像群

①薬師如来1体、②日天・月天各1体、③十二神将12体、④大日如来1体、⑤青面金剛1体、⑥聖観世音菩薩1体、18体各々木彫。②③⑤の作者は飯田の仏師井出宇兵衛、元文元年~元文2年(1736~7)作。①④⑥については不明。由来によれば長元年間(1028~1036)御堂島家は戦に敗れて、下青木の地に潜伏し、草野を開拓した。嘉承年間(1106~7)疫病大流行の時には、神仏に祈り災厄を免れている。よって神威を感じ拝殿を設けたところから後々ここを御堂島といった。延宝4年(1676)洪水のため拝殿は流失したが、その跡地を修復し薬師堂・祠を建立した。元文2年薬師如来木像と脇侍の二天を安置し、この年横山の一寺の本尊大日如来を薬師如来の脇に移し、また十二神将も彫刻し薬師の脇侍としている。

釜沢 / 村指定文化財

宇佐八幡神社神像・吉祥天

神像は衣冠姿、笏を持つ、木造。平安時代末期、神仏習合の姿を現している。この像が祀られている宇佐八幡神社の創立は伝えによると応永4年(1397)といわれ、御祭神は応神天皇・宗良親王・尹良親王。同社にはこの他にも蚕玉様、お子安様、十王の各木像が祀られている。吉祥天 室町時代、木彫。元々この像は、近くにあった釈迦堂にあり、戦後になって宇佐八幡社に合祀されたもの。台座の墨書には仁平元年(1151)と記されているが、この像のものであるかどうかは不明。吉祥天は功徳天とも呼ばれ、衆生に福徳を授けるとされている。

上青木 / 村指定文化財

鰐口

銘「奉施入比丘亢周・應永二十九年十一月吉日」と刻まれている。この鰐口は、上青木引ノ田諏訪社の社宝となっているが、もとは妙清庵に伝存したものである。妙清庵は、松下家伝承によれば、同家の内庵として護持されたきた小堂であり、明治以後は地区による管理がされてきた。松下家の入村は安土桃山期とされているので、この鰐口の年号からすると、それ以前に既に同地区にあったものかもしれない。さらに、銘にある亢周なる僧はこの堂に在住の者であったかどうかは定かではない。

釜沢 / 村指定文化財

絵馬

三正坊神社(現在は宇佐八幡社に合祀)に奉納されていたもの。武者絵が多い。画材として前九年の役・源平合戦・楠公父子・三国志の豪傑・天狗など26点に及ぶ。強豪勇者など武勇や威力を示すものを描いて奉納したのは、三正坊大権現を神通力自在の神として信仰し、神力の加護を恃んで身の安全を祈願したものである。

自然物関係

北川・安康 / 長野県指定天然記念物

中央構造線北川・安康露頭

領家変成岩・深成岩及びそれらを源岩とするマイロナイトと、三波川変成岩の境界という、中央構造線の定義どおりの姿が見られる。わが国最大級の断層である中央構造線の露頭は全国でも稀少であり、北川露頭は鹿塩川の、安康露頭は青木川の洗掘によって現れた露頭で、数少ない露頭の中でも、断層を構成する内帯と外帯の地質構造が明瞭で詳細に観察することが出来る。

下市場 / 村指定天然記念物

ひめまつはだ

この木は深ヶ沢青岩にあった幼木を森誠先生が大河原小学校に大正初年に採取植栽したもので青木谷の青石、天主岩等標高1700m~1800mの石灰岩地帯に分布するがこれほどの大樹は見受けられない。東京大学理学部、植物学教室山崎敬教授によれば、この植物は八ヶ岳と仙丈岳の三峯川付近にしかないとされていた。

入沢井 / 村指定天然記念物

逆さイチョウ

樹高12m、周囲8.3m、樹齢約900年。弘法大師にゆかりの伝説がある古木。弘法大師が若かりし頃、諸国を行脚の途中、この地の辻堂で一休みして、杖にしてきた「イチョウ」の枝を刺しておいた。日暮れまで読経に励み、刺しおいた杖を抜こうとしたがどうしても抜けないのでそのまま立ち去ってしまった。やがて杖は根を張り、枝は地面に向って伸び幾つもの房を持つ大木となったと伝えられている。また、この大古木の幹や枝より垂れ下がっている乳状の樹皮を煎じて飲むと乳の出が良くなる、といわれている。この逆公孫樹は嘉永5年、付近の民家火災により類焼、また落雷等の災禍にもあったが、根本部分が残されて、現在も大古木の面影をとどめている。

河合 / 長野県指定天然記念物

夜泣き松

赤松 樹高15m、周囲4.6m、樹齢約700年。伝えによると、駿木城主児島高春の息女に美袮姫という姫があり、興国の頃、宗良親王につかえ、やがて身籠もった姫は一女を生み、駿木城で育てていた。しかし赤子の夜泣きがひどく姫はたいそう弱っていた。その話を聞いた河合に住む村人は、近くの観音堂に祈ると、観世音菩薩が夢枕に立ち、堂前の松の小枝を持ちて枕辺に供せ、即ち霊夢に従うや忽ち夜泣き止むと、告げた。この松の枝を取って夜泣きする子の枕元に置けば効験あるとの言い伝えが残っている。以後この松は「夜泣き松」と呼ばれている。

— / 村指定天然記念物

樫(シラカシ)

樹高35m、周囲5.9m、樹齢約400年。天正18年(1590)伊那郡代として伊那を治めた菅沼定利は、徳川家康関東移封にともない上野国(群馬県)吉井に赴くことになり、その折、山塩の湧出する鹿塩の地をぜひ見ておきたいと家臣とともに訪れた。本樹はこのときの記念に植えられたと伝えられる。樫木(シラカシ)としては長野県随一の巨木である。

北川 / 村指定天然記念物

矢立木

さわらの大木。樹高29m、周囲6.1m、樹齢約500年。戦国時代末期、遠山郷を治めていた遠山土佐守が、武田参勤の折にこの木の根元へ弓箭(弓と矢)を立て弓術の修練に励んだ。以来、この木を矢立て木と呼んだといわれている。明治の中頃、村有林の立木処分の際、由緒ある古木として切られずに村指定天然記念物として今日まで残されている。

塩河 / 村指定天然記念物

塩泉

[塩泉の比重及び成分]塩化ソーダ 92.97・塩化石灰 3.81・塩化マグネシウム 0.33この塩泉は、伝説によれば建御名方命または弘法大師の発見と伝えられている。それほど古い時代から住民の間で利用されていた。興国年間、宗良親王が大河原に入村当時、塩水を山越しに御所平へ運んだ。明治8年旧徳島藩士、黒部銑次郎及び工藤欣八らが塩泉の採掘を始め、大がかりな製塩場を設置し、食塩製造を行っている。その後、明治24年、軍医総監松本順により塩泉が保健療養に効能があることがわかり、胃腸病・慢性諸疾患等医学的効用に利用され黒部らは翌25年に鉱泉浴場の営業を申請し、これが今日の塩湯鉱泉浴の始めとなった。その後幾多の労苦を経て、平瀬理太郎が黒部らの後継者となって日本でも数少ない塩泉として現在に至っている。